豊後高田市・山田照子さん

廃校になった小学校で暮らすおばあちゃん

お百姓をした

わたしはね、東京生まれで父が外交官だったの。父はもともと国東の来浦(くのうら)の家でね。ブラジル、インドネシア、メキシコとかいろいろ行ってるの。

外交官だったから戦争のことがわかってたのね。日本が負けることがわかって、わたしたち家族を東京から先に大分に帰らせたの。わたしが4歳かな。そのときに大分に帰ってきたから東京のことはあまりよくわからないわね。

父はその後大分に帰ってきたんだけど結核になったのよ。お薬がなくてね。1948年に亡くなりました。

その後は兄は学校をやめて、わたしは学校を出たけど今と違って就職がなくて。お百姓さんを手伝ったの。母は外交官の妻だったから農業はできない。
だからわたしがお百姓をしたの。

この家が1番長い

わたし19歳で結婚したの、お見合いでね。主人は遠い親戚でね、関西大学を出ていろいろしてきたけど建築業に落ち着いたってひと。

二人で北海道に住みました。そこで、下請けをしないと儲からないからって従業員を多いときは50人くらい雇って。

主人は社長をしてたからね。若い人を可愛がってね。釧路に宿舎を建てて、わたしはみんなのご飯をつくって。今みたいにお弁当が売ってるわけじゃないから20人分くらいのお弁当を包んでね、若い人が汽車で持っていくの。もう懐かしいですよ。

子どもはみんな北海道で生まれたの。釧路にいて、その後は札幌で11年。そして41歳の時大分に帰ってきました。

最初の10年は、中津の借家に住んだの。いつだったか大きい台風がきて、屋根が飛んで行ったことがあってね。
ちょうどそのときこの豊後高田の家を買ってたのよ。家族みんなで引っ越したの。あのときは1991年ね。ここが一番長い、もう30年になるね。

旧校舎だった自宅。ピンク色の外壁がトレードマークだ。

ログハウスに住みたかった

わたしログハウスが欲しかったの。ほら、北海道は森の中のあちこちにあるでしょ? 憧れるじゃない。大都会よりも自然が好きなタイプでね、大分に帰って「お父さんログハウスを建てようね」って言ってたの。

山に土地を買えてもそこに行くまでの道のりを考えて、国東半島を中心に探したのよ。なかなか見つからずに半分諦めていたら主人の友達が「ここ買わんか?」って出会ったのが旧校舎のこのお家。

分校として使われていたんだけど、廃校になってからしばらく経っていて買ったときはグラウンドも草だらけで。でも建て直すのはもったいないくらい土台がしっかりしてるし、窓ガラスもすりガラスで素敵だし。
「このままにしよう」って。
教室以外は宿直室しかなかったからお風呂や台所を建て増ししたの。

この分校の生徒だったひとや教えてた先生もまだ近所にいて、遊びに来てるのよ。

コーラスは週に1回、中津まで電車に乗っていくの。30年ずっとしてるの。ここにも、お弁当を持って学校に上がる前の子どもたちを連れてコーラスの仲間がよく遊びに来てたわよ。あの人たちがここのよさをよく知ってると思う。

わたしね、コーラスに週3回くらい行ってたの。娘も中津にいるからね。だってさみしいでしょ、ここにはイノシシとシカしかいないから。よくご飯を探しにウリボーがおりてくるのよ。

でも近所の人がよく散歩に来て花見をしてるから、わたしがいない時は「変わりなかったで」って留守番してくれるのよ。

かつて教室だった場所はリビングとなっている。

「この絵はよう描けちょんな」

小学校1年の時が、終戦の時。紙もいいのはないのよ。

何の気なしにに自分のモンペの姿の絵を描いたのよ。そしたら先生が後ろから「この絵はよう描けちょんな」って言ったの。

その時「あ、わたし絵描けるんだ」と思って。それからずっと描いてる。
今年はコロナだから展示会をやらないかと思ったのよ。でも公募展があって、出展したのよ。
わたしなりに描けばいいのよ。時々孫に大分市内の美術館に連れて行ってもらうのも楽しみ。

初心に返って

もういつ死んでもおかしくないって歳だけど、足以外はすっかり元気なの。

詩を書きに小倉に2か月に1度行ってるのよ。こうやって考えなきゃならないからいいのよね。また次の作品は秋になったら描きだすわ。

普段は色鉛筆で草花を描いてる。昔のはすごくいいのよね。今の方が下手。いい気になるんだろうね、人間。上手に描こうと思うんだろうね。
子どもたちからも中津に帰ってきた時に描いてた絵のほうが上手って言われる。だから次からは初心に返って、頑張るの。

大分んこと、知っちょん?
〜教えて! 大分の好きな◯◯〜

西の関


母の実家が杵築市の「知恵美人」という酒屋をやってるの。

わたしもお酒が大好き。毎日晩酌していますよ。近ごろはウイスキーがお気に入り。

▼国東市国東町
萱島酒造

text & photo by Miharu Korenaga