「車椅子の暴れん坊」と言われる由縁
「暴れん坊」というのは、高校時代にヤンチャしていた時の名前が、暴連坊(あばれんぼう)って名前なんです。「車椅子になっても世の中を変えてやろう」という意味で、車椅子の暴れん坊。自叙伝の本のタイトルにもなっています。
23歳の時に交通事故で車椅子になりました。
お医者さんからは、手も足もたぶん動かないだろうと宣告を受けました。けど、リハビリをやってどこまで回復するかはやってみなくちゃ分からないと思って、3年半病院で訓練をした。それから後3年半は「別府重度障害者センター」というところでリハビリをしました。
落ち込んだことがないっていうか、ちょっとは落ち込むんですよ? だけど落ち込んでいても前に進めないから。
例えば体が動かなかったらどうしようと思った時に、じゃあ頭で稼げばいいなとか、動かないのはその瞬間だけであって、リハビリを続けていればどこかが動くかも分からないじゃないですか。
お医者さんからは手も足も動かないだろうと言われたけども、リハビリしないで動くか動かないかは自分がやってみる。それで、動かなかったら動かない時に考えればいいっていうか。
やってみて駄目なときに初めて修正していく感じです。
体が動かないって自分で認識してやっと、何で飯を食っていこうとか、どういう風に生活していこうと考えたわけです。
一番初めにしたのは医療用品の販売。リハビリ施設にいる時に使う、おしっこの袋があるんです。それが手が不自由だと使いづらかったんで、理学療法と作業療法の先生が改良して作ってたんですよ。それを1回1回作ってもらうのは大変だから、使いやすい物を開発しようと思って、業者に作ってくれと売り込みをかけたんです。ところが業者が作ってくれない、しょうがないんでみんなでお金を集めてそれを製品にして作ってしまおうって。
それが、最初の有限会社の介護・医療用品の販売につながるんです。

それから5年くらい経ってNPO法人をつくって、障がい者のお宅に介助を派遣するサービスをはじめました。最初は障害者2名とヘルパー2名での立ち上げ。それから自立支援をしていきながら少しずつ大きくしていった感じです。
福岡出身だったので、福岡に戻りたい気持ちもあったんですけど、別府の病院に3年半、リハビリ施設に3年半いたんで別府に愛着が湧いてきましたね。
別府は昔から「太陽の家」があるんで、住民の人が障がい者の人を特別視はしないという風土があるんです。雰囲気がよかったんで、別府に住もうと決めました。
「太陽の家」っていうのは、中村裕先生というお医者さんが「保護より雇用を」と、障がい者の雇用を生むために別府の亀川に施設をつくったんですね。それがとても有名で、別府の風土の源になっていると思います。
やりたいことをやっているという、シンプルなこと
初めてリハビリで覚えたのは、ライターの火を点けることだったんですよ。昔タバコを吸ってたんで。
自分が必要と思えば一生懸命頑張るわけよ。だからライターは持てないんだけど、何とか指に挟んで反対の手で押すっていう訓練をして覚えていくわけです。ビール飲みたいから、コップ持てるようになるとか。
自分がしたいことをしているだけなんですよ。
要は自分が飲みに行きたいから飲める店を開拓したり、自分たちでお店をつくったりする訳です。
今度つくりたいと思っている、一日1組限定の「ユニバーサルホテル」も自分がそういうホテルに泊まりたいと思ってるからつくろうと動くわけで。
障がい者と健常者の交流なんていうのも、交流することで自分のことを分かってもらいたいっていうのがあって、活動するんですよね。

今後やってみたいこと
昔漫画を描いてもらったことがあるんですけど、車椅子の人が多い村で快適に暮らしている車椅子ユーザーと少数派の健常者の話。人数が多いのであれば当然車椅子に配慮した世の中になるわけです。天井は2メートルもいらない。
村にお金がないから、車椅子は低いから1メートル50くらいの天井にしようよって話になる。そうすると健常者の人が反対する訳ですよ。「そんなことしたら僕たちが暮らせないんで止めてください」って。でもあなたたち少数だから、我慢してくださいって車椅子の人たちが言うんです。
同じようなコンセプトのものが東京でやってましたね。「バリアフルレストラン」。天井をわざわざ150センチくらいにするんですよ。車椅子だと快適だけど健常者がめっちゃ不自由なレストラン。椅子も何もないんです。車椅子に配慮したカタチでできてるレストランだから、健常者の方が使いづらいっていうイベントにしてたんです。
立場が逆転する、というイベントをできたら面白いなと思ってます。
大分んこと、知っちょん?
〜教えて! 大分の好きな◯◯〜

text by Tatsuharu Miyamoto
photo by Munehiko Matama