ぼくが出張写真館を始めたわけ①

はじめに…… はじめまして。水本 光(みずもと・ひかる)と申します。 現役の介護士として働いています …

はじめに……

はじめまして。
水本 光(みずもと・ひかる)と申します。

現役の介護士として働いていますが、カメラマンとしても活動しています。OPEN OITA PROJECTでは、カメラマンとして写真の撮り方や現場でのイベントのしかたなどを、みなさんと一緒に考えていこうと思っています。

介護の仕事に就く前は、いろんな職業を転々としていました。カメラも広く浅い趣味のひとつでした。現在は介護士の仕事をしながらも、福祉業界を中心にカメラマンとしてお仕事をいただけるようになりました。この連載記事では、ぼくが介護士をしながらカメラマンを志すきっかけになったはじめの一歩である「出張写真館」について書いていきたいと思っています。

このOPEN OITA PROJECTでも、「面白そうだな」「やってみたいな」と考えている大分県の介護士さん、すでにやりたいことはあるけどなかなか踏み出す勇気が出ないという人たちの、「はじめの一歩」が少し軽くなるような、そんな連載になればいいと思っています。

それでは、どうぞご覧ください。

遺影写真って誰のためのもの?

出張写真館について説明をする前に、なぜ出張写真館を始めようと思ったのか、動機について説明をしたい。
ぼくが新入介護職員だった頃までタイムスリップしてみたいと思う。

介護施設で働きはじめて3か月くらいの頃。介護資格を得たばかりのぼくは特別養護老人ホームに勤めていた。「従来型」と呼ばれる造りの介護施設だった。
忙しく、慣れない介護の仕事に四苦八苦していたが、先輩介護職員や優しい利用者さんたちがいて、環境にはとても恵まれていたように思う。

この特別養護老人ホームで忘れられない出会いがあった。女性利用者のSさんだ。

ぼくが入職した頃から、Sさんは食事や入浴などの時間以外はほとんどの時間をベッドで過ごしていた。自力でベッドから身体を起こすことができないほど身体は弱っていて食事、入浴、排泄など生活のほぼ全てにおいて介助が必要な方だった。「ストーマ」という人工肛門を腹部に造設していて、先輩と初めての介助の時は、初めて見た人工肛門に少し驚いていた。そんなぼくをみて眉をひそめて笑っていた。声も出ていなかったので、その時は困ったようにも悲しそうにも見えた。

ぼくが勤めていたフロアはそんな利用者さんがほとんどの割合を占めていた。

Sさんは、いつも困ったような表情で笑っていた。食事の時間には、TVが見える場所にあるソファに腰をかけて、経管栄養の管をお腹に通して食事を摂っている。

時折、食事中でも姿勢が崩れてしまって横に倒れそうになる。自力で座位姿勢を保つための筋力が弱ってしまいバランスを崩しやすいからだ。座位姿勢の保持が難しいためクッションを背中などに当てがい姿勢が崩れないようにサポートする。しかし、クッションがだんだんとずれてくると姿勢が崩れて倒れそうになるのだ。Sさんはそんな時は、もっと困ったような表情で笑いながらこちらを見ていた。

「あらら、Sさん、大丈夫?」

と声をかけて、すぐにSさんの身体を元の姿勢に戻してあげると、ゆっくりとうなずいて返事をしてくれるも、やっぱり少し困ったような顔をして笑っていたと思う。

Sさんとは挨拶をしたり、介助のついでにぼくもソファに腰かけて一緒にテレビを見たりした。言葉で会話できなくとも、その困ったような笑顔にどこか救われていた気がする。さすがにいつもは笑ってなかったかもしれないが、思い出すのはいつも困った顔で笑っているSさんの姿で、ぼくの大好きな利用者さんだった。

たしか、休み明けの早番で出勤した時だったと思う。

Sさんが亡くなっていた。

当然ながらいつものソファの席にはSさんは座っておらず、いつも使ってた食事中に姿勢を保つためのクッションは別の利用者さんが使っていた。突然のことで心に穴が空いたような感覚だった。早番の忙しさを理由に、悲しみに蓋をして働き続けた。でも、今夜のお通夜には参列しようと心に決めていた。

Sさんが亡くなった理由もいまではすっかり忘れてしまったけど、早番終わりに、冠婚葬祭用のスーツに袖を通すと、額に汗が滲むほど暑かったのだけはよく覚えている。

葬儀会場のお寺まで自転車を走らせる。厳かな雰囲気のある古くて大きなお寺だった。先輩職員は早い時間からお通夜に参列していた。通夜の開始まで時間がかかっていたため、翌日早番の先輩職員は親族に挨拶を済ませて、先に帰っていった。あのSさんの顔をもう一度絶対に見たい、手を合わせてお別れがしたいと心に決めていたため、最後の最後まで残るつもりでいた。時間はとても長く感じたが、ようやくその時がきた。

葬儀会場のお寺まで自転車を走らせる。厳かな雰囲気のある古くて大きなお寺だった。先輩職員は早い時間からお通夜に参列していた。通夜の開始まで時間がかかっていたため、翌日早番の先輩職員は親族に挨拶を済ませて、先に帰っていった。あのSさんの顔をもう一度絶対に見たい、手を合わせてお別れがしたいと心に決めていたため、最後の最後まで残るつもりでいた。時間はとても長く感じたが、ようやくその時がきた。

このしごとをして、初めてのお通夜。介護職員はぼくしかいなかった。

緊張しながら一歩、二歩、祭壇に向かって近づいていく。棺桶が見えて、その上に飾られている遺影写真も、少しずつ見えてきた……。

「あれ? おれ、葬儀会場間違えたんかな」

Sさんの遺影写真を見て、本当にそう思った。何回か見直した気がする。

遺影写真のフレームの中にいたのは黒い髪の毛がふさふさしている、ふくよかなおばちゃんがこちらに微笑みかけていた。なぜかその写真も少しぼやけてみえるし、明らかに解像度が低いのだ。昔旅行中に撮影した集合写真を無理やり引き伸ばして使った、みたいな合成写真だった。不安な気持ちになったが、棺桶の窓を覗くと、そこにはぼくのよく知っているSさんの顔があった。葬儀会場は間違えてなかったらしい。棺の中のSさんはとても細く痩せこけていて、写真のようにふさふさな黒い髪の毛はないけれど、間違いなくぼくがよく知っているおばあちゃんの姿だった。ただ、いつものように笑ってはくれなかった。

長めに手を合わせ、葬儀会場を後にした。
モヤモヤした気持ちが、尾を引いていた。モヤモヤの正体は、明らかに遺影写真にあった。

なんでぼくのよく知る大好きだったSさんの写真じゃなかったのか。Sさんが過ごした特別養護老人ホームで暮らした時間、ぼくに見せてくれていた困ったような表情で笑うSさん、短いけれどもSさんと共に過ごした時間や、今、現在のSさんまであの一枚の写真に否定されてしまったような気もして、なぜか寂しい気持ちだった。しかし、楽しかった思い出で自分で選んだのかもしれないし、家族が選んでいたのかもしれない。ぼくが知るSさんは、Sさんの人生のほんのわずかな部分でしかない。遺影写真は誰のために残すのだろう。

ペダルがとても重く、長い帰り道だった。

それからしばらくして、仕事にも慣れてきた頃、初めてのボーナスで一眼レフカメラを買った。
でも、Sさんのことを再び思い出したのは、別の特別養護老人ホームで働き始めた時だった。

広くて浅い趣味のひとつだったカメラで、初めて自ら撮りたいと思ったのは、遺影写真だった。

text & photo by Hikaru Mizumoto