ぼくが出張写真館が始めたわけ⑤【最終回】

最終回 いよいよこの連載も最終回となりました。最後は、ぼくが小さい頃にお世話になった園長先生と偶然再 …

最終回

いよいよこの連載も最終回となりました。最後は、ぼくが小さい頃にお世話になった園長先生と偶然再会をしたところからはじまります。
ものがたりの舞台は、ぼくが生まれ育った町・愛媛県喜多郡内子町(うちこちょう)へ。

園長先生

「あんた、A先生って覚えとる? 保育園の園長先生しよったひと」

早出仕事の帰り道、急に母から唐突な電話がかかってきた。

「あんたのこと知っとる園長先生が施設に入居してきたんよ。ひかるちゃんってあんたのことよく覚えとる。電話かわってあげるから話してみんけん」

母は愛媛県喜多郡内子町という小さな町にある「有料老人ホーム」で働いている。有料老人ホームとは、簡単に言えば主に民間の企業などが運営する老人ホームのことだ。住宅型、健康型、介護付きなど3種類に分けられる。それぞれ受けられるサービスや入居できる条件が異なるのが特徴だ。

母が働いているその施設に、ぼくがお世話になったという保育園の園長先生がご夫婦で入居したとのことだった。正直、保育園や幼稚園の記憶は思い出すことができないのだが、話をしてみることにした。

「ひかるちゃん、元気してますか。Aと言いますが、覚えていますか」

年老いた穏やかな女性の声は、ゆっくりと丁寧な言葉遣いが印象的だった。しかし声を聴いても聞き覚えはない。顔すら全く思い出すことはできなかった。ひとまずその場は話を合わせて覚えていることにして会話をすすめていた。

電話を終えたあと、母の迎えが遅い時に、よく気にかけてくれた年輩の先生がいたことは思い出した。それでも正確な顔や声、名前まで思い出せない。半信半疑ではあったが、帰省した時に挨拶に行ってみようかと考えていた。

それからというもの、A先生から定期的に留守番電話が入るようになった。

「あの、Aといいますが。元気にしていますか」というものが内容のものが多かった。仕事が終わった後や休憩時間にかけ直した。

ぼくの大好きな内子町の「ひなあられ」を送ってもらったこともあった。雛祭りのシーズンに手作りでしか作られず、わざわざ店舗から取り寄せて送ってくれた。美味しくてすぐに売り切れてしまうような人気商品だ。

お礼に「藤色の手ぬぐい」を送ることにした。先生の好みがわからないため、優しい女性によく似合う藤色を選んだ。ぼくも好きな色だ。A先生との記憶は相変わらず思い出せないままだったが、そんな留守番電話を通じたやりとりがしばらく続いていた。

白壁の町・内子町

その年は、お盆休みのシーズンに合わせて帰省することができた。ぼくが当時勤めていた「特別養護老人ホーム」などの入所施設では、お盆に合わせて休みがとれることは滅多にないと思う。利用者さんにとって施設は「暮らしの場」であるからだ。むしろお盆休みに合わせた面会者や休み希望者が増えるので、通常では忙しくなるシーズンだ。

この年、ぼくは長年付き合っていた彼女と結婚式を挙げるために、挨拶まわりなどの用事を済ませる必要があった。当時の同僚や上司の理解もあり特別にお盆休暇をいただくことができた。この機会に、A先生にも会いに行くことにした。

少しだけ、僕が生まれ育った内子町のことについてご紹介したい。愛媛県喜多郡内子町は漆喰造りの古民家が並び、一級河川に認定されている「肱川(ひじかわ)」の支流となる小田川が流れている。和紙と漆喰、石畳の村などは今でも有名だが、過去に三町合併をしていても人口は2万人を切るような小さな町だ。

ぼくは合併前の旧・五十崎町(いかざきちょう)という小さな町で生まれ、高校生になる15歳まで暮らしていた。手すき和紙が特産品で、大凧合戦が年に一度の町をあげた大きなお祭りだ。

神南山(かんなんざん)と呼ばれる山はパラグライダーの隠れスポットとして有名で、気持ちのいい風が吹き抜けている。自販機までも歩いて15分くらいはかかるようなところに住んでいたので、小さな頃は山と川が遊び相手だった。大きくなるにつれて次第にテレビゲームが新しい遊び相手に変わり、そんな町も時が流れると共に少しずつ姿を変えていった。

ぼくがA先生と出会った保育園も町を出る前にはすでになくなってしまい、保育園があった場所は児童館の駐車場となっている。

当時は「狭くて小さな何もない町」くらいにしか思っていなかった。

再会とはじめまして

挨拶まわりが一通りすんで、母の付き添いのもとでA先生ご夫婦に会うことができた。

ほとんど記憶がないので、ぼくの気持ちは「はじめまして」という感覚の方が近かった。昼食の時間を過ぎて、A先生ご夫婦は大きな共有スペースで一緒にテレビをみたり自由な時間を過ごしていた。

A先生は少し細身で、年齢の割には黒くてふさふさした髪が印象的だった。旦那さんのBさんとは初対面だった。口数は少なく、少し難しそうな人だなというのが初対面の印象だ。

A先生は車椅子を使用していた。自分で少しだけ足をつかって移動がすることができる。A先生は「進行性核上性麻痺」という難病を患っていた。徐々に関節が硬くなっていき、やがて寝たきりになってしまう難病指定の病気だ。

「ひかるちゃん、久しぶり。元気してましたか?  いつもお母さんにお世話になっています」

耳馴染みのある、穏やかで丁寧な口調だった。直接会っても、保育園の先生の頃の記憶はまるで思い出すことはできなかった。

先生こそ元気にしてた? 身体は大丈夫なの? と、ひととおりの世間話をした後、車に三脚とカメラは積んでいたので記念に夫婦写真を撮ることにした。思いつきではあったものの、まさか生まれ故郷に帰ってまで出張写真館をすることになるとは考えもしていなかった。

先生がせっかくひかるちゃんが写真を撮ってくれるならと、ぼくがあげた「藤色の手ぬぐい」を身に付けたいと言って部屋に戻っていった。

後で聞いた話になるのだが、先生はわざわざ手拭いに似合う洋服を自分で選んで着替えてくれていたようだった。ぼくはそのことすらすっかり忘れていた。

故郷での出張写真館

撮影場所を選んで、カメラと三脚をセットして準備は完了した。

A先生が着替えて戻ってくるのを待っていた。A先生は母と、お待たせと言って戻ってくると、手拭いを首に巻いてくれていた。先生を車椅子から椅子へ座り換えをしてもらった後、「出張写真館」は幕をあけた。

先生は嬉しそうにカメラに笑顔をむけてくれ、旦那さんのBさんは表情は変わらないものの、A先生が座る椅子の背もたれに優しく手をかけていた。夫婦写真を撮影した後、みんなで写真を撮ろうと思った。

A先生は身体が弱く、子宝には恵まれなかったそうだ。まるで自分の子どものように可愛がってくれているような気がしていたのは、そんな理由もあったからかもしれない。

家族みんなで写真を撮るのは少し気恥ずかしい気持ちだが、母と彼女にも声をかけてみんなで写真を撮ることにした。セルフタイマーで、写真を撮る。

「先生、もうすぐシャッター切れるからね! 3.2.1……」

シャッターが切れる音が響いた。

撮影した写真は、本当の家族ではないけど、本当の家族の写真のようにも見えた。撮影した写真は敬老の日の前に、額に入れて夫婦写真と家族写真の両方をプレゼントした。

後日、「あのAですけど、お母さんからいただいた写真が綺麗に撮れとって、本当にうれしかったです」というメッセージが留守番電話に入っていた。

電話で話すと、写真は職員さんや面会にくる人がみんな褒めてくれると言って、とても喜んでくれた。普段の気取っていない2人が見えると好評だったようだ。

その後、しばらくしてA先生は脳梗塞で倒れた。

無くなった留守番電話

A先生が脳梗塞で倒れてからは定期的に入っていた留守番電話はピタッと無くなった。無事退院してからというものの、難病の進行が早くなってしまったこともあり食事をひとりで摂ることや、会話をすることも難しくなっていた。

最後に会うことができたのは、2020年の1月、夫婦揃ってまた再会することができた。共有スペースで旦那さんのBさんとほかの利用者さんと過ごしていた。あまり身体の状態はよくないと聞いていたので部屋から出て、みんなと過ごしている姿を見ただけでも安心していた。

旦那さんのBさんも元気そうだったが、少しぼーっとしていることが多いように感じた。A先生はぼくが話しかけると目を合わせてくれて、目配せしてくれているようだった。A先生や旦那さんのBさんと少しだけ時間をともにすることができ、スマホのカメラで一緒に写真を撮って別れた。

コロナウイルスが毎日世間を騒がすようになってしばらく経った後、A先生は再び倒れたてしまった。A先生は施設での生活を続けるのは厳しい状態で、面会もコロナウイルスの影響もあり家族しか許されず、今も意識がない状態が続いている。

園長先生夫婦のこと

後になってから母に聞いた話になるが、A先生は町内のいろんな保育園で行き来するように勤めていたこともあって、とても顔が広いようだった。

狭い町なので施設に勤める職員さんもA先生のことを知っている。職員さんから「園長先生」と呼ばれることもあったそうだが、A先生は園長先生と呼ばれるのことを嫌っていたらしい。子どもたちのことだけでなく、お母さんたちのこともよく覚えていたようだ。

構音障がいと言って、A先生の病気は進行すると聞き取りにくい話し方に徐々になっていくことも特徴で、それが原因で旦那さんのBさんとは喧嘩をしていたらしいが、穏やかな仲のよさそうな2人からは想像しづらい光景だった。

母いわく「でもひかるちゃん、ひかるちゃんってあんたのこと言いよる時は、なんでかはっきりと喋れてたんよ」。

確かにそうだった。留守番電話を聞き返しても、電話でも聞き取りにくいと感じたことはなかった。ひかるちゃんは元気ですか?  いつ帰ってくるの? と何度も母に尋ねていたそうだ。

現在は夫婦2人で住んでいた部屋には、旦那さんのBさんひとりで暮らしている。職員さんや面会にきたひとが額に入った写真のことを倒れると危ないし、割れるから閉まっておくか尋ねると「これはここに置いときたいんじゃ。一番綺麗に撮れとる。2人が一番気に入っているんや」と言って今も飾っていてくれている。

この話を母から聞いたとき、撮影して本当によかったと心から思った。

こんなに近くで

幼少期のA先生との思い出は、会っても会話をしていても深い霧がかかったように、まるで思い出すことができない。留守番電話を何度も聞き返しても同じことだった。A先生はほかの教え子と勘違いをしているんじゃないかとも思っていた。

母から写真が残っていたと聞いたので、実家から送ってもらった古いアルバムをひっぱり出してその写真を探してみることにした。出てきたのは赤い滑り台で楽しそうなぼくと、ぼくの後ろでA先生が笑って一緒に滑っている写真だった。A先生は少しふっくらとしているけど、黒い髪の毛は変わらずフサフサとしていて、なにより笑っている顔は今も昔もまるで変わっていなかった。

大きな赤い滑り台を見て、思い出したことがある。この滑り台で遊んだ遠足の日のことだ。小さい頃、ローラー付きの滑り台が大好きだった。この日の遠足で、友だちとお尻が痛くなるくらい、この赤い滑り台でたくさん滑って遊んで楽しかった。
昔も今も変わらずに、A先生はこんなに近くでぼくを見守ってくれていた。ただ、ぼくが気がついてなかっただけなんだ。きっとぼくだけではないだろう。深く大きな愛情で多くの子どもたちを包み込み、近くで見守ってくれていたに違いない。
A先生との思い出はこんなに近くにあったのに、なんで今まで思い出せなかったんだろう。入院している病院では、A先生には家族しか面会することはできない。
次にA先生に会える日がきたら「ありがとう」と心から感謝を伝えたい。この写真をみて、ぼくは心に決めている。

最後に

この連載を終えてみて気がついたことは、介護の仕事、ひととの出会いを通してこんなにもたくさんの物語がぼくの中に詰まっていたんだということを「再発見」できたことです。
ふりかえる暇もなく現場働いている時は、気がつく余裕すらなかったのだけれど。
慣れないことだらけで大変でしたが、この連載はぼくの中に眠っていた物語を「再発見する旅」みたいなものだと思いました。

OPEN OITA PROJECTでは、インタビューや記事作成を通して「訊くこと」「伝えること」を実践しながら学ぶことができます。
インタビューを通して誰かの物語に触れること、伝えることで自分の心の中に眠る物語も「再発見」することができると思います。
ちなみに「写真には相手が写るけど、自分も写る」とぼくは思っています。ぼくはこの連載を通して眠っていた「物語」を再発見することができました。
この連載を読んでいただいているあなたの中にも、たくさんの「物語」が眠っているはず。まずはこの連載を通して、「はじめの一歩目」が少しでも軽くなれば嬉しく思います。

それでは、OPEN OITA LABでお会いできる日を楽しみにしています!

text & photo by Hikaru Mizumoto